孝明ヒストリー

「ふるさとの再生」なくして日本の再生なし!

1祖父の背中を見て育った幼少期

祖父の店の前で

 祖父は沼津市で小さな商店をやっており、商店の僅かな売り上げを麻袋に入れ、一緒に銀行に預けに行くのが楽しみでした。一生懸命、汗水たらしながら働き、コツコツ毎日努力し、その対価としてお金を頂くことを祖父の背中から学びました。
 貧しいながらも7人の子を育て、15人の孫に恵まれた祖父の姿勢を伝承する事が、私の義務であると感じております。
 余談ですが、小さい頃になりたかった職業はお坊さんです。
なぜお坊さんなのかは、こちらの動画に答えがあります

2勉強は…アルバイトばかりの学生時代

 東京の大学へ進ませてくれた親には申し訳ないのですが、学校の勉強を積極的にした思い出はありません(汗)。学校の勉強よりもアルバイトで社会にふれる、参加する事が楽しく、アルバイト三昧の学生時代でした。
 想いで深いアルバイトは、ニッポン放送さんのショウアップナイター内のラジオニュース原稿を作るバイトで、単語を渡され、アナウンサーがラジオを聴いている人へ的確に伝えられるようにニュース原稿を書いたり、野球のスコアブックが付けられたので、スコアをつけたりしていました。解説者みなさんやアナウンサーの方々から、限られた時間で人に想いを伝える事を教えてもらったのは貴重な体験でした。

3地元密着の銀行員時代

 バブルの崩壊から景気が低迷している中での就職活動は、友人、知人をみても大変厳しいモノでした。ある時、実家に戻ると、子どものときから知っているお店がなくなっている、人が閑散として活気が無いなど、目に見える形で疲弊しているのがわかりました。生まれ育ったふるさとを何とかできないかという思いが芽生え、地元のスルガ銀行へ就職しました。
 スルガ銀行では11年間、地元密着の銀行員として働き、会社の決算書を見て融資をし、経営者の方々と夢や未来を語る前向きな話ばかりでなく、大半は苦しみ、悲しみ、経営が苦しい、悲鳴ともいえる声を聞きながらも、夢や未来を語る声に耳を傾けてきました。従業員を想い、家族を想い自らの命を絶たれた場面にも直面しました。
 その中で、入社2年目~3年目、中小企業向け融資額全店NO1の成績が評価され社長賞を連続受賞するという栄誉を受けました。
 夢も未来も語れない、誰かが何とかしなければならない、経済の底上げをするためには、政治の力が必要と感じ、政治の世界を目指すこととなりました。

4何もかもが新鮮だった2年間の予定候補者時代

 政治家の家庭に育ったわけでもない私には全ての活動が新鮮でした。朝に駅や街頭に立ち、日中にみなさんの声を聞いて歩き、夜は会合に参加させていただく。問題点が鮮明に見えてくると同時に、ふるさとを何とかしたいと思うみなさんの強い気持ちが、私を奮い立たせ、毎日の活動の活力となりました。
 多くの方から指導、応援いただき、当初は反応がわかり辛かったのが、徐々に声をかけていただき、「ふるさと再生」、「日本再生」を望む声の多さに、胸が熱くなる思いでした。
 見ていないようでしっかり見ていただいていた。伊豆半島の人たちの温かさを心から感じることができ、ここに生まれ、育ち、本当に良かったと思うと同時に、もっと多くの人に、伊豆半島の事を知って欲しいと思いました。

5そして、今

 平成24年12月の衆議院選挙で、103,967票のご支持を賜りみなさまの代表として国会へ送り出して頂きました。
 地元と国会の日々で、一日に何往復もする事もありますが、「ふるさとの再生なくして日本の再生なし」、政治を志した初心を決して忘れることなく、また、みなさんから聞いた声を届け、豊かなふるさと、そして日本を取り戻すために活動しています。具体的には、地域団体商標登録を活用し、地域ブランドを確立することにより、地元のみなさんのモチベーションを上げながら、全国へ情報を発信する。より多くの団体からも登録申請ができるようにし、埋もれている資源を発掘しています。新たな「ふるさと再生」の仕組みも計画中です。
 国会議員は、外交・防衛、国の事だけやっていれば良い。と言われる方がいますが、それをやるのは当然の事、地域に目を向け、地域に根付いた政治を行い、地域を良くし日本を良くしていきます。
 今ならまだ間に合います。笑顔でふるさとで暮らせる、その日まで…

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